世界史の流れと、お金の流れから見た明治維新 (No.2)

グラバー邸と坂本龍馬、その軍資金

 1987年グラバー邸改築の時、グラバーの内縁の妻となったツルさん(あの“蝶々さん”)の部屋の天井に隠し梯子が見つかり、その2階に大きな隠し部屋があったことが判明した。
 幕末の世、薩長土佐の脱藩浪士はあちこち追われたが、長崎に来ると行方不明になったという。この隠し部屋に逃げ込んだとしたら納得できる。薩長土佐の浪士、坂本龍馬、幕府方の勝海舟もここで度々密談をした。グラバーも当然加わった筈である。

 尚、坂本龍馬が50~60人の海援隊を抱え、収入無しで、オマンマが食えたのも、彼が東奔西走した旅費が払えたのもグラバー等からの援助があったからだ。また、犬猿の仲だった長州を薩摩と同盟させる役割を担った大砲、鉄砲等武器弾薬、軍艦を、稼ぐ手が無かった坂本龍馬が買えるはずがない。ここでもグラバー等のイギリスからのカネが動き、薩摩側のお土産となったのは容易に推察される。

 一方、1865年、南北戦争が終わったばかりのアメリカからは、30万挺の中古や新品のライフル銃と弾薬が、太平洋を横断し上海経由で薩長土佐(官軍)に手渡された。これも若い武器商人、トーマス・グラバーが手配した。グラバーは、また、英国から軍艦と最新のアームストロング砲を長崎や神戸に運び、官軍に売った。

生麦事件の賠償金

 1862年、生麦事件。殺傷された4人の英国人の賠償金のため、薩摩は幕府に借金した。イギリスの要求するスペイン銀貨、メキシコ銀貨が50キロ入りの箱で、賠償金交渉の為鹿児島湾に停泊していたイギリス艦隊の船にうず高く積まれた。(坂本龍馬等の軍資金に使われた?)

長州と薩摩の若者のイギリス蜜留学

1. 長州の5人の下級武士をイギリス本国へ密留学させた。5000両、現代のお金で11億円ともいわれるカネは長州藩とその御用商店が工面した。密航の手配は全てグラバーがした。1863年ジャーディン・マセソン商会の船、「チェルスウイッコ号」に乗りロンドンに向かった。ロンドンでは、ジャーディン・マセソン商会の創業者の一人の甥にあたる、ヒュー・マセソンの世話になった。

  • 長州ファイブ: 
    井上聞多(馨)(外交の父)、伊藤俊輔(博文)(内閣の父)、遠藤謹介(造幣の父)、山尾庸三(工学の父)、野村弥吉(鉄道の父)、平均年齢26.4歳

2  また、薩摩でも、薩英戦争(1863年)(東郷平八郎16歳の時の初陣―余談)で西欧文明の偉大さを痛感し、島津藩主久光の命令と藩のお金で約7万両費やし、1865年グラバーが用意したグラバー商会の蒸気船「オースタライエン号」で4名の使節団と15名の留学生が密かにロンドンに向かった。

  • 使節団:
    寺島宗則、五代友厚他二人
  • 留学生(薩摩スチューデント):
    森有礼等15名。平均年齢21.4歳(最年少13歳の長沢鼎、アメリカに渡り、かの地でブドウ王と言われた)

3. 長州ファイブの三名(伊藤と井上は急遽帰国していた)と薩摩の留学生達がロンドンで出会った。

当時のロンドンは、長州ファイブが到着した2年前、1861年に地下鉄が開業しており、その蒸気機関車が引っ張る地下鉄に乗ったり、街中の鉄道に乗ったり、紡績工場、造船場、造幣局等々世界一の大英帝国の繁栄ぶりを観せられて、薩長の若者たちが如何に驚き、羨望の眼差しで見たことか!そして、誓ったに違いない。薩長の諍い、尊王攘夷など屁にもならない、そんなことに構っておられる場合じゃないと。日本だって、イギリスと同じ島国、幕府を倒し、このイギリスのような新しい日本を創ってやると。そして、イギリスの全てを勉強してやると向学心を燃やしたことだろう。

伊藤俊輔、井上聞多の帰国と薩長同盟

1. 通説では、両人は新聞で知った長州藩の攘夷を中止させるべく、藩主に説得するため急遽帰国したとなっている。しかし、蜜留学して、1年足らずで英語の新聞を読めるはずもなく、勝手に帰国できる筈もない。これは、いがみ合っている薩長を仲良くせ、早く討幕の体制を作れというイギリス側の意図であった思われる。事実、両人が上陸したのは横浜で、真っ先にイギリス公使のハリー・パークスに会っている。

2. イギリスの指示で帰国した伊藤俊輔と井上聞多は、二人が師事する坂本龍馬に会い、薩長同盟の為、長州がそれまで買えなかったライフル銃、アームストロング砲、軍艦をグラバーから手当てし、坂本自ら二人を従え船で長州に行き薩摩からのお土産として渡した。ここでイギリスの意図通りに薩長同盟が成立したのである。1866年1月。

(つづく)