大英帝国・フランスとアヘン戦争とジパング乗っ取り計画
1840~42年の第一次、1856~60年の第二次アヘン戦争で清国より強奪した賠償金総額は、今のカネにして英国が34兆円、フランスが7兆円。その大英帝国は、当時の地球の4分の1、当時の全世界人口の3分の1を自国の植民地としていた。
清国から強奪した香港から次の獲物を狙うと、アジアの中で残っていたのは、あの黄金の国、ジパングであった。
しかし、二度のアヘン戦争や、インドのセボイの反乱(~1859)、清の大平天国の乱(~1864)等で自国の将兵もかなりの痛手を受け、戦争ではない方法でジパングをモノにしたいと考えた。クリミヤ戦争(~1856)からアヘン戦争に至るまで10年以上も共に戦ったフランスに呼びかけ、ジパングをいかにして自分のモノにするか知恵を絞ったに違いない。
そのジパングは、250年に亘る鎖国で泰平をエンジョイしていたが、アメリカのペリー来航(1853年)で、やれ開国だの、やれ尊皇攘夷だのと大騒ぎをしている。薩長土佐には、二十歳そこそこの血気盛んな若者が日本(ひのもと)の為にはいつでも命を投げ出さんと刀を振り回している。
この薩長土佐と幕府を将棋の駒のように操り、内乱を煽動して両者を消耗させた後、頭が真っさらで、何でも言うことを聴く、つまり使い易い若者の薩長土佐を勝たせ、「日本乗っ取り」作戦を練ったのである。いわば、薩長土佐の若者によるクーデター計画であった。
薩長土佐、幕府の全ての情報は、次のような経緯で設立された会社の日本支店や、イギリス側から派遣された、煽動者、スパイたちによってもたらされ、彼らが薩長土佐の若者を自在に操り、必要な武器弾薬を供給したり、蜜出国の手助けをした。
1 清国へアヘンを密売して巨万の富を築いたのがジャーディン・マセソン商会。日本には、早くも明治維新の9年前、1859年に既にジャーディン・マセソン商会横浜支店が設立されていた。
2 同じ年にト-マス・グラバーが上海でジャーディン・マセソン商会に入社。翌々年1861年、このグラバーが22歳の若さで長崎にジャーディン・マセソン商会の代理店としてグラバー商会を設立した。1863年、グラバー邸建築。
3. 第一次アヘン戦争後手に入れた香港に作られたのが「香港上海銀行」。
(HSBC―今でも世界でスキャンダラスなニュースを賑わすあの銀行である)。設立の目的は、アヘン戦争と、アヘン密輸で儲けたマネーロンダリング銀行。1866年、香港上海銀行・横浜支店設立。
4. 1865年、ハリー・パークス、イギリス公使として横浜着任。パークスは天津でアロー号事件を起こし、第二次アヘン戦争仕掛けた張本人。パークスの通訳がアーネスト・サトウ、天才通訳で英国のスパイ。